近江商人の生活と文化

近江商人の教育

五個荘地域(現 東近江市)の寺子屋

寺子屋は、全国的にみてふつう短期間で途絶えてしまうことが多いのですが、五個荘地域では長期間にわたって継続されました。このことから、五個荘の人々が寺子屋を支えていたこと、ひいては五個荘の人々教育に対する熱意の高さを伺い知ることができます。
また、調査時点での五個荘の一校当たり平均寺子数が110人と、全国平均の60人に比べてかなり高く、女子の比率も五個荘が35%、全国が20%と高いことから、五個荘における近世後期の学習意欲の高さを裏付けています。

注:「日本教育史資料」8、石川松太郎「藩校と寺子屋」

では、どうして五個荘地域では、このように教育が求められたのでしょうか。
その理由として、五個荘では、近世後期になると、京・大阪・江戸などに出店を持つ五個荘商人が輩出し、同時に、村民の子弟で商家に奉公に出る者が多かったため、読み・書き・算術能力の獲得が早くから期待されたからと考えられます。
そのため、五個荘では、近世中期以降、民衆の学習意欲が持続され、文化水準が次第に高まっていったことが推測されます。

時習斎の成立

写真:中村義通

時習斎は、もと水戸藩の医師であった中村義通が、元禄9年(1696)に五個荘町宮荘村に開校した寺子屋です。
義通の父順通は水戸藩の藩医を務め、義通はその嫡子でしたが、病気のため暇をもらいました。
そのあと3年間の養生で回復して江戸に出、のちに水戸彰考館(徳川光圀が「大日本史」編纂のために設立した編纂所)総裁となる儒者・三宅観瀾のもとで5年間学びました。ついで、本格的に医学を修めようと中山道を通って京都へ向かう途中、五個荘で旧友の金堂陣屋代官・八代権右衛門に再会しました。そしてその人のすすめで、北庄に定住して時習斎を開いたのです。

時習斎の役割

●教育内容

時習斎では、読み書き、算術を教えました。医師や僧侶、神官、武士などの子弟は、これに加えて四書五経など漢籍(中国の漢文で書かれた書物)の素読講義や漢詩文の添削を受けました。一方、女子には『百人一首』『女大学』など、男子とは異なった教育内容がもうけられていました。

●高度な成人教育の場<再学として>

時習斎で行われた教育内容について調べていくと、時習斎が単に初等教育の場であっただけでなく、さらに高度な成人教育も行われていたことがわかります。
時習斎の歴代が収集した蔵書をみると、総点数が1600点弱と、村の寺子屋としてはかなりの点数にのぼっています。この大部分は近世に刊行された版本と、歴代の斎主(塾長)みずからが筆写した写本類で、総記、倫理、中国哲学、教育、神道、仏教、兵学、自然科学、書画、諸芸能、中国文学、日本文学、国語学、外国語、歴史、地誌など広い分野にわたっています。

こうした蔵書の豊富さから、時習斎が、寺子に読み書きなどを教える初等教育機関であっただけでなく、より高度な成人教育機関でもあったことが推測されます。このことは、時習斎の歴代斎主(塾長)が医学修業のため京都に遊学し、村に帰ったあと医療に従事していること、京都の俳諧師や漢詩人らと深い交流があったことなど、高い教養を備えていたとみられることからも裏付けられます。

そのことをよく表しているのが「再学」という言葉です。これは、寺子屋学習を終了したあと、より高度な学習のために再入門したことを示す言葉です。ほかに「素読」「読書」「講尺(書物の意義の説明)」「易学入門」「四書読物」「五経文選素読」「文雅(風雅の道)」「謡」「俳諧入門」といった成人のための学習内容を示す言葉や、「内習」「寄宿」「寓居」のように、内弟子や下宿形態での学習を示す言葉、「夜習」「夜業」「下僕」「手代」のように学習者が奉公人であることを示す言葉などがあります。

●成人の文化サロン

現在、五個荘の旧家には近世の書物が数多く所蔵されており、当地の五個荘の人々が様々な分野への関心を深め、豊かな教養を身につけていたことがわかります。時習斎はそうした成人の文化サロンでもありました。

例えば近江では、近世前期から俳諧が流行しており、18世紀には晩年の松尾芭蕉が「幻住庵 」(現大津市国分)に隠棲したほか、湖東から李由、堅田から其角、彦根から許六といった俳人を輩出しました。

こうしたことから、五個荘でも早くから俳諧がさかんで、とくに時習斎を中心にしたグループが注目されたのです。

●地域の図書館

時習斎には「時習斎文庫」が設けられており、多くの書物もそろえられていました。
例えば俳諧書が194点、華道の書が12点、謡曲の書が38点所蔵されていました。
また、時習斎では、成人を対象に、謡曲や諸礼(小笠原流などの礼式作法)が教授され、時習斎の歴代斎主自身、漢詩文や和歌に深い造詣がありました。こうした事実は、各地に行商する五個荘商人の教養が、時習斎で培われたことを物語っています。と同時に、時習斎の蔵書が、五個荘の人々にとって地域の図書館のような役割を果たしていたともいえます。

近江商人の旅姿

合 羽 雨天用マント
行 李 衣類などを入れる容器(柳や竹で編んである)
手 甲 布で作り手の甲をおおう
天秤棒 両端に荷物をかけ、肩にになうための棒
脚 絆 旅にでるとき、すねに巻きひもで結び、足ごしらえとするもの。
草 鞋 わらで作ったはきもので、ひもで足にゆわえつけてはく。
菅 笠 スゲの葉で編んだ笠
手控え帳 忘れないように手もとの帳面に書いておく

◆丁吟の奉公人忠七の場合(湖東町)

小林吟右衛門家(屋号:丁吟)の奉公人であった忠七に関する史料から、当時、まだ行商段階にあった丁吟の奉公人としての様相や服装を見てみよう。
木綿藍立縞綿入の下に、木綿の茶縞袷(あわせ)と同じく木綿の浅黄(淡い藍色)縞の単衣物を重ねて着て、小倉帯を締めている。下着は浅黄木綿の襦袢に白木綿の下着を締め、紺の股引に白足袋を履いている。腰には真鍮の矢立を差し、古皮の巾着を下げている。
忠七の所持品は油紙包2個で、天秤棒に両掛けにして麻縄でしっかり結び付けている。
一つの油紙包には木綿の浅黄紙入が入れてあり、なかには金50両の為替手形1通と手紙が1通、その他は縄2筋と油紙の補修用の桐油一つである。もう一つの油紙包は柳行李で、その中には帳簿と金子と桐油が入っている。(近江商人郷土館「近江商人の旅」より)

近江商人の妻たち

「関東後家(かんとうごけ)」ともよばれた近江商人の妻たちは、一年の大半を行商に赴き本宅を留守にする主人に代り、家政全般に留まらず、丁稚の採用や教育・出店からの報告などの商売向きにも大きな役割を担っていました。

寺子屋への入門から汐踏み(しおふみ)(商家での行儀見習い奉公)・上女中を経て近江商人の妻となって「のれん」を守り、商家の精神的な支えとなったのが商家の女性たちでした。

八幡商人に「おこひつさん」という言葉があります。「御後室様」と書き、大店の未亡人を指す言葉ですが、大店にふさわしい人格と教養を備えた大奥さまとして自他共に認められた女性への親しみが込められていました。

近江商人の一生

学校がなかった江戸時代には店へ年季奉公に出すというのが最高の教育方法で、村の子供の多くが丁稚に出されました。

丁稚を一度抱入れたからには、一人前の商人に鍛え上げるのが店主の責任であり、丁稚時代は従業員養成の期間でした。営業部門を次々担当業務を替わりながら、手代、番頭に昇格し、その後、主人から家名と財産を分与されて別家となり、分家してからも本家との主従関係は続いたのです。

近江商人の年表

在所登り制度

通常、「子供」と呼ばれた丁稚は12、3歳で入店する際、奉公人請状という入店誓約と身元引受けを兼ねた証文を主家へ入れます。本格採用となると、実名とは別に、店内での名前を付けてもらい、出店へ配属されました。

店の雑用に追われながら、16、7歳で元服式があり、奉公して5年目くらい経つと、「初登り」という、親元(在所)への最初の帰省が許され、販売などに携わる手代となります。さらに2、3年後に「中登り」が認められ、奉公人としての格も番頭、支配人へと上がっていくにつれて毎年1ヶ月ほどの在所への登り休暇が与えられ、そのころには結婚が許されました。

在所登り制度は、長い奉公期間の一区切りであり、大きな慰安休暇であったと同時に、継続勤務が可能かどうか、それまでの勤務に評価が下されるときでもあったのです。だから、この在所登り制度は、単なる年功序列ではなく、人材選抜の厳しい能力主義によって貫かれたといえます。

<年齢>
●6〜7歳 ●寺子屋へ入門
●商家へ奉仕に上がる。
●10歳頃
【丁稚】
(子供・小者・小僧・坊主)
初登り
(奉公して5年目)
親元へ初めて帰省登り
ときには退職の形をとる

再勤を許された者だけが店に戻る
主人のお供。子守。掃除。使い走り。
読み・書き・算盤の練習。行儀見習い。
※無給
(盆・暮れに小遣い銭とお仕着せが支給)
10歳前後で奉公に上がり、「◯吉とん」と店での呼び名をつけられる。丁稚は従業員養成の期間であるため、店務以外に雑用が多く、またその方が目立つ。
暇さえあれば読み書き算盤、さらに、金銀銅貨の計算、その相互の換算、取引活動にわたる一通りの知識を身につけて、10数歳で半元服となる。
その鍛え方は大変なものである。
●16〜17歳
【手代】
元服後に昇進
中登り
初登りから二、三年後
隔年登り
中登り後に二、三回
番頭の指図で出納・記帳・売買など、商いの本筋に携わる
※給金が定まる。
20歳で元服、頭髪も前髪を落として成人っぽくなるし、呼名も兵衛名にかえられる。現金は初登りに旅費と土産金がもらえる以外は原則として奉公中は現金は支給されない。やがて僅かずつ給金がもらえるようになり、年々昇給するが、これも現金支給ではなく、昔からの前借金と相殺される。20歳を過ぎて給金も上がるが、現金支給ではなく、その後は店に預けるということになる。
●30歳
【番頭】
毎年登り
毎年帰省することが
許される
店の経営。家事の切り盛り。
奉公人の指導・監督。
※給金以外に報奨金も支給。
30歳ぐらいまでが、年季で、年季が明けるまでは、二度登り、毎年登りと帰郷回数も増えるが、往復に1ヶ月もかかるので、それほど長い滞在はできない。
店への預け金は年季が明けるときに現金で支払われ、相当な金額になる。
その間に結婚するが、店へは妻を伴わず、郷里に留守させるので「関東後家」になる。
●35歳
【別家】
を許される
本家から家名と財産を分与されて独立。
※別家後も本家との主従関係は続く妻を娶(めと)り、所帯を持つ別家はいわゆる「のれんわけ」で、「宿這入(やどはいり)を致させる」とも言い、別家の際には、元手金(開業資金)として退職金や給与積立金が、その他「褒美金(ほうびきん)」などの祝儀が本家から与えられた。一方、別家からは、本家との主従関係を守ると誓約した別家証文が出されていた。
【隠居】
社会活動
●公共事業への投資や慈善事業文化活動
●寺小屋に再学(さいがく)
●俳諧・絵画など宗教活動
●神社仏閣への寄進
●笈(おい)を背負っての霊場めぐり
(先祖の供養と店の発展を祈願)
家訓・店訓を定める
PAGE TOP