近江商人群像

近江商人群像

近江商人の素顔とは?

滋賀県はびわ湖をはじめとする豊かな自然と長年の歴史・文化に支えられた素晴らしい資産に満ちています。そうした伝統ある近江の風土の中で育まれたのが「近江商人」です。 
近江商人とは近江に本宅を構え、日本各地で商売をした人々のこと。江戸時代から明治時代にかけての約300年間、その地 道な活動によって日本の商業を根本から支えました。
「近江泥棒」とか「近江商人の通った後には草も生えない」などと悪口めいた言葉も残る近江商人ですが、それは裏を返せば、同業者がそんなふうに言いたくなるほど、巧みな商法とずば抜けた商品開発力で多くの人に喜ばれる商品を提供したということ。堅実・勤勉・質素倹約・信用第一を基本とする一方、無償で橋をかけたり、学校を建てたりと、利益の社会還元を進んで行うなど、知れば知るほど経済人としての素顔が明らかになってきます。
そこには、現代にも通じる教訓が 満ちあふれているのです。

八幡商人

◇海外に進出した近江商人 西村太郎右衛門  (?〜?)
江戸時代初頭、近江八幡出身。綿屋を営みながら海外貿易の機を狙い、やがて安南(ベトナム)への渡航に成功しました。正保4年(1647)いったん長崎に帰着しましたが、すでに在外日本人の帰国が禁じられていたため、故国に帰ることができなかったのです。太郎右衛門は、望郷の想いを「安南渡海船絵馬」にたくして、再び安南に去りました。その後の行方は不明です。
太郎右衛門が、日牟礼八幡宮に奉納した「安南渡海船絵馬」

◇合理的な判断力の 市田清兵衛 (3代) 寛永7年(1636)〜正徳4年(1714)
上州安中宿の有力な宿役人の家を根城として上州一帯を小間物行商し、土地の産物を名古屋・京都の有力問屋商人に送りだすことに成功した3代目は、宝永四年(1707)に安中宿を引き払い、上州 高崎に開店した時、小間物の取扱を中止し、呉服・太物の専業になりました。遠隔地での取引は利幅の大きい繊維品が有利と する合理的な判断によるものでした。
八幡掘は、商品搬送の要であった。掘沿いには、商家が建ち並ぶ。

◇時世を読む力に富んだ 西川仁右衛門(西川甚五郎 初代 )
天文18年(1549)〜正保元年(1644)

19歳で商売を始め、近江と能登の間を蚊帳と塩干物を商品として「のこぎり商い」に従事していた初代は、八幡で畳表の生 産が盛んになると、商品と販売方法を一変し、多数の売り子を雇って東海道方面への販売に乗りだし、豊臣氏が滅んだ元和元年(1615)には江戸日本橋の一等地に店舗を構えました。
歌麿の浮世絵 「婦人泊まり客の図」にも描かれた、萌黄の蚊帳。

◇逆境をバネに北海道交易 岡田八十次 (初代)  
永禄11年(1568)〜慶安3年(1650)

初代は、蒲生郡加茂村の出身で、織田信長の安土城下へ移住し、さらに豊臣秀次の八幡城下(現、近江八幡市)に移住しました。文禄4年(1595)に八幡も廃城となったので、南部地方(岩手県)に行商に出かけ、北海道へ渡り、松前城下に支店を構えたといいます。同家は、日本海の海運を利用して呉服・太物・荒物類と北海道産物の交易に従事し、大きな資産を築きました。
松前屏風道指定有形文化財。
当時の風俗や、交易のようすが克明にえがかれています。

日野商人

◇近代商法の先駆を開発 中井源左衛門 (初代)  亨保元年(1716)〜文化2年(1805)
悲運の中、19歳で家運挽回を図って関東へ出向き合薬行商で 元手金を増やした初代は、次に太物(麻・木綿類)を取扱商 品に加え、地元の商人と共同で質屋も営みました。栃木県大田原の出店に続いて共同出資によって東国から畿内へと次第に出店網を張りめぐらし、産物廻しの商法によって行商をはじ めた時の元手20両は晩年には10万両を超えました。
日野まつりの曳山は、近江商人の浄財で造られたと伝えられている。

◇独立自営を決意した 正野玄三 (初代) 万治2年(1659)〜亨保8年(1733)
18歳で越後行商に従事した初代は、26歳の時に独立の行商 を始めるにあたって、「自戒七カ条」という、自分自身に厳しい戒律を課しました。それは、ほとんど自己資金がなかったのに、親類縁者から400両余りの営業資金を調達するという恵まれた境遇に甘えず、返済することを自分に誓うためでした。 強い自立心があってはじめて、一族をあげての資金援助も実った ことを示しています。
日野の地場産品の売薬製造には、欠かすことのできなかった薬研。

◇多店舗展開を工夫した 矢尾喜兵衛 (初代)
同郷の矢野新右衛門の武蔵秩父出店に奉公に入り、39歳の寛永2年(1749)、別家して、秩父に酒造業を創業しました。喜兵衛は、多種類の日用品を取り扱う万小売業や質屋も兼業しました。 矢尾家は、明治初期までに16の支店を築いています。地元の商人から酒造道具等を居抜きで借り受け、奉公人を送り込み、少額の資本で多数の開店を可能にしたのです。
秩父夜祭
日本三大曳山祭の一つ。秩父神社例大祭。

◇出店立地に着眼した 山中兵右衛門 (初代) 貞亨2年(1685)〜安永3年(1774)
日野塗物師の末っ子として生まれた初代を行商に駆り立てたのは、 先祖伝来の居宅を人手に渡すことになった本家の倒産でした。 20歳から日野と御殿場との行商に励み、御殿場が地方経済の中 心であるという立地の良さに着眼して此処に日野屋を開店しました。御殿場は宿場町であり商品運搬の道、富士参詣の行者道で、将 軍への献上のお茶壺の通る道でもあったのでした。地方経済の中心を立地に選んだのです。

日野椀
行商に適しないと思われる原因から消滅した「日野椀」。
今に残る「会津塗」は、日野の製法を踏襲したと言われる。

湖東商人

◇卸行商に工夫した 小林吟右衛門 (初代)  安永6年(1777)〜安政元年(1854)
20歳頃から行商を始めた吟右衛門は、各地の農村の万屋商人に別送した商品を委託し、自分は見の回りを天秤棒に担いで巡回するという新しい行商の方法を始めました。多くの商品が扱えて利益も上がりますが、委託先の商人の信用度やその土地の好みなどを見抜く眼力とたくさんの商品を仕入れるための低利の資金調達ができる信用を必要としました。
近江商人郷土館 小林吟右衛門(丁吟)家。
近江商人郷土館として一般公開されている。

◇正直と勤勉の手本 高田善右衛門 (初代)  寛政5年(1793)〜明治元年(1868)
神崎郡北庄村の醤油醸造業の末っ子として生まれた初代は、17歳の時、安穏な生活を捨て、独立自活を決意し、少額の資金を元手に行商を始めました。正直や倹約を信条とした善右衛門は、ある店で売り掛金を受け取っての帰り、1両多いのを発見し、深夜10余キロの道をいとわずに返しに行きました。このような善右衛門の正直さや勤勉さは、戦前の修身の国定教科書にも取り上げられています。
天秤棒
成功しても、初心を忘れること無かれと、店の片隅にかけられています。

◇商いの志を受け継いだ 外村与左衛門 (5代)  天和2年(1682)〜明和2年(1765)
上層農家の外村家を嗣いだ5代目は、19歳の時から持ち下り商いを始め、いろいろと試行錯誤を重ねました。初めて江戸へ布商いに下ったときも、17両の損失をだして、不案内な土地での行商の難しさをかみしめました。しかし、5代目はあきらめずに、荷物の運送に馬や飛脚を利用する大型行商に励みました。外村家の子孫もこの行商を受け継ぎ、京店、大坂店を設けました。
五個荘町金堂の町並み今も船板塀や、白壁の土蔵が建ち並ぶ。

◇機転と闘志の人 市田弥一郎 (初代)  天保14年(1843)〜明治39年(1906)
13歳の頃から商品を背負って寺院などへ売り歩いた初代は、 20歳の頃、市田惣右衛門の養子となり東海道の持ち下り行商に従事しました。明治7年(1874)、持ち下り行商に見込はないと看破し、東京に小さな京呉服店を開業しました。2度も類焼の災難に見舞われましたが、屈することなく持ち前の機転を利かせて小資本を活用し首都東京に商売の基盤を築きあげました。
対龍山荘:市田弥一郎の別荘。京都市左京区岡崎南禅寺にある。

◇時代を見通す決断力 伊藤忠兵衛 (初代)  天保13年(1842)〜明治36年(1903)
商家の次男に生まれた忠兵衛は11歳から行商の経験を積み、17歳で近江麻布の持ち下り行商を始め、開港した長崎の繁栄ぶりを見物して、貿易の実情に触れ、大きな感銘を受けました。
第二次長州征伐も機敏に対処して商機に転化しましたが、維新後の状況を見て持ち下り行商に見切りをつけ、明治5年(1872)大阪 本町に呉服太物商を開店しました。
伊藤糸店繁栄の図:明治5年に大阪に開店した伊藤の原点ともいえる店。

◇孝心に支えられた勤勉 塚本定右衛門 (初代) 寛政元年(1789)〜万延元年(1860)
父の臨終の枕元で、家を興すことこそ孝行の第一と聞かされた定右 衛門は、「小町紅」をもって東日本への行商を始めました。甲府を 行商の中心地に選び、文化9年(1812)には小間物問屋を開き「かせがずにぶらぶらしてはなりませぬ、一文銭もたのむ身なれば」の短冊を風鈴にして商売に励み、14年目に祈願の邸宅を新築しました。
「小町紅」には欠かすことができなかった紅花。

◇ベンチャーキャピタルの先駈 松居久左衛門 (3代)
明和7年(1770)〜安政2年(1855)

商家の次男に生まれた久左衛門は、農業のかたわら生糸、綿布、絹布、麻布等の行商に従事し、江戸・京都に店を設けた。屋号を星久としました。これは、朝、まだ星のあるうちに家を出て、夜、星をいただいて帰るという、勤勉と忍耐の商売をするという意味があります。豪商になった久左衛門ですが、平素の生活は質素倹約に徹して、蓄財に努めました。しかし、有事に際しては多額の出費を惜しみませんでした。天保大飢饉や東本願寺焼失、京都御所焼失の際は、それぞれに数百両もの寄付をし、凶作で年貢不納の者があれば、そっと代納しておいてやるなどの慈善行為には枚挙にいとまがありません。また、後進の有能な湖東商人に対して資金援助を行うなど慈善事業だけでなく、ベンチャーの育成にも力を尽くしました。
近江商人の旅姿。天秤棒に荷物を振り分け、行商に励んだ。

高島商人

◇フロンティアスピリッツで創業 村井新七 (初代)  (1627〜1707)
高島郡高島町出身の新七は、江戸時代初期に大溝で商いに従事していましたが 雄飛の志を抱いて、慶長15年に岩手県遠野に新天地を求めました。新七は最初、砂金関係の仕事を始めたのですが、自分が商人であることを自覚して、慶長18年に盛岡に移り「近江屋」を開きました。ここが以後、高島商人の「わらじ脱場」となり、高島地方より商人となることを志す若者の拠点となりました。「わらじ脱場」は、宿を提供するだけでなく丁稚、手代の教育の場であり、のれんと資本を分け与え、「内和」と呼ばれる系列商店網づくりの拠点でもあったのです。
道中磁石。 行商時に持ち歩いた磁石

◇悲劇の豪商 小野善助 (7代目) 天保2年(1831)〜明治20年(1887)
初代善助は、盛岡の叔父村井権兵衛に呼ばれ、天和2年(1682)京 都から盛 岡に進出し、「井筒屋善助店」を開き陸羽地方との交易で成功しました。以降、小野一族は、木綿、古手などの雑品 を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、次第に各地に支店を出して栄えました。7代目善助の時、三井、嶋田とならんで出納所御為替御用達となり、明治維新には莫大な御用金などで奉公の誠を尽くして新政府に加担しました。明治6年には、三井組と第一国立銀行を創設しましたが、明治7年、政略などに抗しきれず破産に追い込まれました。今は「幻の財閥」として、 歴史の流れに没し去られています。
銭緡(ぜにさし)
使用に便利なように、ひもを通し、96文で100文とした。

◇高島屋の原点 飯田新七 (初代)  享和3年(1803)〜明治7年(1874)
江戸時代の終わり頃、飯田儀兵衛は、高島郡南新保村から 京都へ出、「高島屋飯田儀兵衛」と称して米穀店を営み、その娘婿の新七が古手木綿商を始め、屋号を「高島屋飯田呉服
店」と称しました。これが、高島屋百貨店の創業の基となったのです。
結界と帳場 この中で、番頭が仕事をした。

近江商人とは

発祥の地

商法と理念

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